東洋医学の解剖学の歴史(7)・終

このシリーズは今回で最後になります。

話は中国に戻ります。

中国においても人体の正確な解剖図が欲しい、という要望はずっとあったようです。

ラストエンペラーでも有名な清の時代、西洋との交流によって中国にも西洋医学が流入してきます。

西洋医学の体系的な流入は1850年代とされていますが、その少し前、1797年に王清任という医師が解剖を行います。

当時は子供が亡くなると野原において野犬に食べさせると言うのが一般的でした。現代の感覚からするとむごいように思われるかもしれませんが、これが当時の風習だったようです。

その食い荒らされた死体を解剖し、又どうしても横隔膜の位置が分からず、西洋の軍医に聞くなどして完成させたのが「医林改錯」と言う書物です。これが出来上がったのが1830年とされていますので、33年を費やしたことになります。そう考えると前回お話しした山脇東洋の蔵志は環境にも恵まれかなりスムーズに制作されたといえます。

専門的になりますが、医林改錯に載っている胃の図を見ると総胆管(胆嚢から十二指腸に出ている管)なども記載されており、非常に精密な解剖であったことが伺えます。

その後の西洋医学の流入を受け、中国伝統医学の中にも西洋医学の考え方が取り入れられたりもしています。

東洋医学においては解剖できない中での医学の発達は西洋とは違う方向に進んでいきました。(西洋でもそれなりに解剖はタブー視されていました。)

それが蔵象学、と言う考え方で有り、内臓生理と解剖学を複合させ、独自の世界観を気づいていくこととなります。

この蔵象という考え方については又項を改めてお話しできればと思っています。