東洋医学の解剖学の歴史(3)

さて時代は進み、秦(始皇帝で有名ですね)、前漢、新、後漢と進んでいきます。

この新という国が出来たのが大体一世紀初めくらい。王莽という人が漢に反旗を翻して起こした国です。
この王莽が反乱軍を捕らえて解剖したとされます。

解剖自体は解剖刑といい、解剖されること自体は非常な辱めだったようです。

王莽は食肉解体職人や医師に命じて解剖し、内臓を計量や繋がりを調べ、脈管の長さを竹ひごで測るなどして、その記録を取ったとされます。
これで病を治すことが出来る、と言ったそうですので、本格的に内臓の様子が分かったのはこの頃なのでしょう。

その新はすぐ滅ぼされ、漢が復興します。これが後漢と言われます。大体この時代に黄帝内経が成立したとされています。
この黄帝内経は「素問」、「霊枢」の二種類に分かれています。
その霊枢の「経水篇」という所に人が死んだらそれを解剖できる、と言う記載があり、また「腸胃篇」「平人絶穀篇」と言う所には胃腸の長さや内容量が記載されています。

驚くべきは、この腸胃篇に記載されている食道と腸管の長さの比率は現代解剖学のそれとほぼ一致します。
如何に精密に調べられたかが分かりますね。

これは先ほどの王莽による解剖の知識の影響があるとされています。

つづく